■大島太兵衛■
屋号を綿屋、名を暉意、通称太兵衛といった。
現一宮北郊東大海道より大島家の養子として来た。
犬山焼丸山窯の濫觴である 島屋惣九朗 が文化七年(1810)
丸山に窯場を設けて後
文化一四年三月この陶器株を同じ上本町住綿屋太兵衛が出願の上譲り受け
京都粟田から、轆轤職人を雇い入れ
お庭焼の振興に努めたが、創業時代の苦労は当時の町奉行所にあてた
願書に残されている。
苦難の犬山焼の維持発展に成瀬正壽の援助のみならず
太兵衛の功績は大きいといわねばならない。
すなわち天保二年(1831)、加藤清蔵・松原惣兵衛
引き続いて道平等が犬山焼に新風を入れるまで
約一五年のことである。
これも綿屋太兵衛の犬山商人として幅広い交際と根性で
資金面のみならず、多くの町民の信頼を得て
経済的・行政的手腕をふるったためといえよう。
当時惣年奇で、名字帯刀御免、名披露目見
能拝見に出る事が許されていた。
また宗門改願御免で町方手代を経由しないで
直ちに奉行所へ出す事が許された。
古くは神戸弥一朗・小島弥左次衛門を始め
神戸長蔵・神戸弥兵衛など町方役人として
武家との中間にあって、その労を取った。
大島家にはその他金子貸借関係、不動産売買関係を始め
多くの家業商取引関係の諸帳簿・記録が残されており
当時の幅広い犬山商商人の気質をうかがい知ることができる。
三代目大島太兵衛は寛政九年 (1797)ごろの生まれで
弘化三年(1846)二月二日 五十歳で死去した