■兼松所助(初助)■
犬山では文化年間(1804〜1818)ごろから
京の伏見人形を模した土人形作りが始められた。
大正の中ごろまで新町・鍛治屋町あたりに
一、二軒土人形屋が残っていた。
兼松所助は犬山坂下材木町に住む土人形師で
人形細工の原型作りをしていたようである。
また丸山窯が、成瀬正壽の援助と加藤清蔵・松原惣兵衛等の努力と相まって
ようやく軌道に乗り、天宝年間には、惣兵衛の赤絵付に名工道平も加わって
隆盛に赴たが、さらに拈り細工の巧者な所助の参加を求めた。
天保十年(1840)に、継鹿尾山寂光院へ寄進した仁王像の香炉には細工人所助
窯方清蔵吉平(惣兵衛)、赤画師逸兵衛(道平)の書銘があり
天保十二年、惣兵衛が寺内町の万蔵院へ奉納した狛犬一対には
兼松所助作の銘がヘラ彫りされている。
小形ながらその優れた力量を示す傑作である。
このように所助の拈り細工を必要とする仕事も多かったと考えられる。
またこの人は花鳥画を得意としこ、このころから陶画にも意欲を燃やして
道平・惣兵衛とはやや趣を異にする独特の赤絵付を試みた。
嘉永四年(1852)から犬山焼に参加した。
近藤二村とともに画風を論究して
それぞれに特色のある多くの作品を残している。
とくに所助は赤と緑の他にこれまであまり用いられなかった若竹色を配して
犬山赤絵に新生面を開いた。