■尾関作十郎信業■
文化二年(1805)四月五日春日井群林村において
世世製瓦業を営む常八の長子として生まれた。
幼より学を好み、少壮に及んで
名古屋藩士岡孟彦に就いて国学を修めた。
生来敬神尊王の志厚く、殖産興業の念も深かった。
文政十年(1838)父常八が成瀬家の御用瓦師市郎兵衛の株を譲り受け
引き続き御用をおうせ付けられた。
製造所を犬山に設け、父に代わって事業を監督し犬山に寓居した。
以後本業のかたわら付近の林野を開拓して
桑・茶・果樹等を栽培、嘉永三年(1850)から製茶業を兼業して
販路を信州方面にまで拡張した。
また、この地方は上古には養蚕・製糸も盛んであったが
その後衰えて、嘉永・安政のころには絶えて養蚕する者もないのを嘆き
率先して飼育研究、近隣にこれを指導奨励したため
当地の養蚕は他の群村に先だち盛んになったといわれている。
さらにまた犬山には、元禄年間より、犬山焼の製造が行われ
今井村の庄屋伝三郎が、窯主となり、美濃の陶工の手によって焼き出されたが
安永十年(1783)に一旦廃絶した。
助等の名工によって赤絵呉州・雲錦手・染付磁器等多彩な名品佳器を焼き出し
地方の特産品として発展させようとしたが、維新の変革期に遭遇して
再び衰微の途をたどり、廃絶の危機に瀕した。
これを惜しんだ作十郎は、清蔵・惣兵衛に資金援助を与え
また自らも慶応二年(1866)製瓦場の傍に陶窯を築いて
茶壺等の製造を試み、一応は成功を収めた。
しかし明治初年に及んで、清蔵等は廃業のやむなきに立ち至った。
犬山藩はこれを復興しようとして、新たに物産方をおいて
瀬戸から加藤善治を招き、専ら製陶に従事させたが
これも幾ばくもなく、廃藩とともに休止するに至った。
ここにおいて作十郎は犬山焼の継承を決意し
藩の経営した製陶場を譲り受け、職工を選択
原土を精選し、工場を増設する等努力を重ね
失敗にも屈せずようやく復興し、今日の犬山焼の基を築いた。
犬山焼中興の祖といえよう。
明治六年(1874)、製瓦、製陶の業を長子 善左衛門(二代目作十郎信美)
に譲って引退、名を 閑平 と改め専ら風月を友とし
懐を吟詠に託し、石州流の茶人長島閑哉
神戸弥左衛門・赤堀鉄丸等と交友した。
「尾関作十郎信業陶窯跡愛知県」の記念碑が
モンキーパークのバラ苑内にある。