■成瀬正住■

 

成瀬正壽の長男、文化九年(1812)九月三十日名古屋に生まれる。

生家は垪和氏、初めは偽三郎、同十四年四月、万之助と改め正住と名ずけた。

文政五年(1822)正月、小吉と改め、同十一年十二月諸大夫を仰せ付けられ

主殿頭に任じられる。

天保元年(1830)十月、加判、雑用二〇〇〇俵を下賜される。

同三年、一〇〇〇俵加増になり

同六年二月、奥平大善太夫叔母鏐(おばりゅう)と婚姻

同七年九月斉温夫人近衛福君の迎えとして上洛

同九年十月父の卒去で、十二月八日遺領三万五〇〇〇石と犬山城を相続し

隼人正と改めた。

翌十年二月、斉温俄かに薨じ、継嗣問題で

名古屋藩士間で議論沸騰の折、また犬山焼改革の要があって

病と称して、一時犬山在邑を願い出た。

帰邑後は文武を奨励し、犬山の啓道館

名古屋に学問所(後に要道館)を設立、高田務を挙用し

村田太乙を聘し、また庭内に窯を築いて

花紅葉及び赤絵呉州を写し、犬山焼きの発展に寄与した。

城主として、三,四年の永住はそれまでに無く

今日の犬山繁栄の基盤を作った。

天保十三年には余坂より大火が起こり

松の丸御殿・巽・坤・御成・宗門・屏風の

五櫓二門墻塀(しょううへい)に延焼したが、幸いにも天主は無事であった。

火事の後復旧をいそぎ、翌十四年十一月には

ほぼ竣工し、斉荘(なりたか)を犬山城に饗応して

その威力の大きさを示した。

 

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